秀吉 寺領を没収▶▶秀長 大工集め復興
大津市園城寺町の三井寺金堂(国宝)で、豊臣家と三井寺(園城寺)の関わりを紹介する企画展「豊臣兄弟とその時代展」が開催されている。三井寺は豊臣秀吉によって寺領を没収される危機に陥るが、弟の秀長や
(ねね)らの尽力で再興されるまでの経緯を史料でたどることができる。(林華代)
経緯たどる史料展示

秀吉が天正元年(1573年)に三井寺に宛てた「羽柴秀吉書状」(東京大史料
所蔵)の複製を展示。大津城を築城する前に、大津港に蔵を造営するため、三井寺が寺家大工30人を手配したことへの秀吉の感謝が記されており、当時は良好な関係だったことがうかがえる。
しかし、文禄4年(95年)に突如、三井寺は秀吉による
令で寺領が没収され、主要な堂が取り壊される。理由は定かではないが、織田信長による焼き打ちで打撃を被った比叡山延暦寺に、秀吉が三井寺の金堂を移築。西塔本堂の釈迦堂(重要文化財)となり、延暦寺に現存する最古の建物となっている。
慶長3年(98年)、秀吉は亡くなる前日に三井寺の
復興を許可。企画展の会場には、徳川家康や毛利輝元、前田利家など五大老の連署で寺領として認めることが書かれた朱印状の写しなどをまとめた「園城寺再興略記」もあり、復興を指揮したのは北政所で、着工から1年あまりで三井寺の金堂を建立していることがわかる。

金堂内に残されていた棟札、墨書などについてはポスターで解説。再興には三井寺の寺家大工のほか、京都の大仏大工、近江衆、奈良の大和衆が関わっており、中心的な役割を果たしたのは大仏大工で、もとは秀長が但馬(兵庫県)を治めた際に任用した大工と考えられるという。墨書には「大和大納言」と尊称された秀長の大工であることを示す「大和国大納言藤秀長卿大工」と記されている。
家康も仁王門(重要文化財)と三重塔(同)を、輝元が一切経蔵(同)を県内外から移築、寄進したことや、三井寺再興の最大の功労者とされる近衛家出身の高僧「道澄」についても紹介。道澄は、秀吉が発願した大仏を安置するために創建された方広寺(京都市)の住職、三井寺長吏などを歴任した人物で、秀吉からの信頼が厚く、三井寺復興のため、闕所令の解除を繰り返し要望していたという。
企画展について、福家俊彦長吏は「秀長が目をかけた大工たちの、最高の技術で三井寺は復興できた。苦難の歴史から当時に思いをはせてもらえれば」と話している。
12月28日まで。無料(別途入山料が必要)。

