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戦時の学校 伝える日誌

「お国のいうことには反対できなかった。多くの人に見ていただけたら」と語る内田さん(大津市で)
「お国のいうことには反対できなかった。多くの人に見ていただけたら」と語る内田さん(大津市で)

色鮮やか登校服/黒塗りのB29

 テレビはもちろん、本や雑誌、絵本など、子どもたちの文化や表現力を育てるものは何一つなかった――。戦時中の制約された環境の中、小学校の教師が少しでも児童たちの文化や感性を育てようと記録させた瀬田国民学校(現大津市立瀬田小)の学級日誌が8月3、4両日、瀬田北市民センター(大将軍)の「南
大萱おおがや
・戦争の記憶展」でパネル展示される。色鮮やかに描かれた絵や言葉が、戦況が悪化した188日間の子どもたちの日常を伝えている。(林華代)

8月3、4日 大津でパネル展示

 〈今日は入学式でかはいい一年生の子供がお父さんやお母さんにつれられて来ました。私たちは五年生になりました。(中略)決戦下の少国民として、一生けんめいに勉強してお国のためにつくします〉

 日誌は太平洋戦争中の1944年4月5日から始まる。ピンク色の満開の桜の下、和服姿の母親と赤い服を着た1年生のおかっぱの女の子や、緑地に赤い点が入った鮮やかな上着を着て、笑顔で登校する5年生の児童の様子が描かれている。地味な色の国民服が一般的だった当時にしては、不思議なほど色彩が豊かだ。

 「せめて、絵の中だけでもおしゃれにしようと思いました」。当時、学級日誌を書いた内田喜代子さん(91)は懐かしそうに語る。学級日誌は、内田さんをはじめ、担任だった西川綾子さん(故人)に選ばれた7人の児童が交代で書いたという。

 戦時の日常を記したページが多く、9月7日には近くの寺で大阪から疎開にきた子どもたちのところに、蒸したジャガイモを持って慰問に行き、遊戯をした様子が生き生きとしたタッチで描かれている。

 翌年1月29日の日誌には〈毎日のやうに敵のB29が私たちの頭の上へ飛んで来ます。(中略)ソロバンも、×算÷算はだんだんおぼえて来るのでわたしたちはほんとうにうれしいです。国語も読むけいこが出来て大へんうれしいです〉と厳しい状況下でも、勉強に励む様子を伝える記述もある。

     ◇

 一方で戦況が悪化するにつれ、日誌には攻撃的な表現や絵が増え始める。

 44年12月8日には、3年前の真珠湾攻撃に触れ、〈私たち国民は、一時もぼやぼやとはして居られない〉と語気を強め、ハワイを想像して攻撃の模様が描かれた。45年1月22日には、国民学校高等科の生徒が少年兵に志願し、〈天皇陛下のため戦争をして下さることになった〉とつづる。

 そして卒業式前日の3月19日、日誌は突然終わる。〈にくらしきB29 今に見てゐろこの戦〉という戦争宣伝のような言葉と共に、機影が真っ黒に描かれた。内田さんは「だんだん、語気がきつくなって、先生がもうやめておこうと思われたのかもしれない」と語る。

     ◇

 日誌は約20年前から開催されている「南大萱・戦争の記憶展」で内容が公開され、2016年、「戦時下での子どもの学校生活を知る上で貴重」として大津市の指定文化財となった。

 その3年前の13年、終戦記念日に当時の級友たちが集まり、68年ぶりに日誌を書いた。

 〈現代は何でも自由に書けますが、この時代は子どもだった私達なりに書いて良い事、いけない事を判断していました。そんな私達の置かれた状況を、皆さんに感じ取ってほしいと思います〉

 日誌の締めくくりとして、次世代に残したメッセージだ。

 内田さんは「一生懸命生きたので、日誌は宝物です。ですが、戦争にはならないよう、平和で楽しく生活出来ることを願います」と静かに語った。

 展示などの問い合わせは南大萱資料室(077・545・1696、平日のみ)。

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[紹介元] YOMIURI ONLINE 戦時の学校 伝える日誌

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