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大津市 捕虜収容の歴史

日露戦争 同大院生が経緯まとめ

 日露戦争(1904~05年)の捕虜収容所が大津市内で園城寺(三井寺)などに設けられた経緯などを同志社大大学院生の野村さなえさん(28)がまとめた。その成果は3月発行の「滋賀県史研究」創刊号に収録されており、野村さんは「三井寺は
古刹こさつ
でありながらも陸軍に利用され、大きな負担を強いられた」と指摘している。(林華代)

三井寺 境内11か所で600人

日露戦争によるロシア人捕虜収容所があった三井寺境内に立つ野村さん(左)と福家長吏(大津市で)
日露戦争によるロシア人捕虜収容所があった三井寺境内に立つ野村さん(左)と福家長吏(大津市で)
「滋賀県史研究」の創刊号(大津市で)
「滋賀県史研究」の創刊号(大津市で)

 野村さんは元県史の編さん員で、県内の歴史を調べるうちに捕虜収容所の存在を新聞記事や県の公文書で知り、収容所が三井寺に与えた影響に興味を持つようになった。

 野村さんによると、日露戦争で捕虜となったロシア兵約7万人は、各地の収容所に送られた。大津市内には1905年3月18日に開設され、同23、24日には中国の旅順や奉天付近で捕虜になった約1500人が到着。三井寺や近松別院といった寺院など34か所に収容所と関連施設が設置された。しかし、捕虜の取り締まりが困難になり、約半数が千葉県習志野市に移された。

 収容所の建物は、捕虜の名誉と健康を保ち、かつ逃走を防ぐため、陸軍兵舎や公共施設が充てられ、通訳を配置したところもあった。食糧や衣服などは日本軍と同等以上とし、捕虜将校の家族が来日した際には同居や自由散歩を許可したという。

 大津市では、捕虜の受け入れに各機関が奔走した。市は陸軍と収容所の割り当てなどについて協議し、電灯の架設にも着手。大津署は取り締まりのため、関連施設に臨時出張所を置いた。収容所は捕虜の宗教別に宿舎が割り当てられ、外部への散歩は監視つきなら許され、巻きたばこや扇子も寄贈された。

 農産物品評会には、捕虜約750人を参観させた。そこで購入を申し込んだり、帰国後に種子を分けてほしいと求めたりした捕虜もいたという。野村さんは「(捕虜を人道的に扱うことを定めた)ハーグ陸戦条約に基づいた待遇にも見られるように、国際社会における日本の位置が強く意識されていた。日本の産業発展を海外に誇示する側面もあった」と分析。また、日露戦争が終わり、捕虜が大津市を離れる際は市民が駅で見送ったという記録も残っている。

 三井寺は、明治維新後の上知令で隣接する土地が官有になり、陸軍兵舎が建てられた関係で、境内にある龍泉院、妙厳院など11か所が収容所として割り当てられた。約9か月間で600人ほどの捕虜を収容し、その数は市内の寺院で最も多く、期間も長かったという。同寺の福家俊彦長吏は「捕虜収容所の歴史はほとんど知られておらず、三井寺でも詳細な経緯はほとんど分からない。この研究は寺の歴史の一コマになり、具体的に調べるきっかけになる」と話している。

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[紹介元] YOMIURI ONLINE 大津市 捕虜収容の歴史