安土城考古博 父子の書状一堂に
織田信長と3人の息子の書状などを紹介する特別陳列「信長とその息子たち」が近江八幡市の県立安土城考古博物館で開かれている。次男と三男は父の死後、自らの印章を父の「天下布武」に似せており、権威を利用しようとするしたたかさや、死後も残った信長の影響力がうかがえる。3月18日まで。(林華代)
馬蹄形や字体 酷似
会場には4人の書状を1枚ずつ並べており、印章の特徴などをパネルで解説している。
天正10年(1582年)の本能寺の変では、信長と、家督を継いだ長男・信忠も命を落とした。跡目を争い、次男・信雄と三男・信孝が権威を示そうとする姿が2人の印章から見て取れる。
信孝の書状は「織田信孝
」(1582年)。父の死後、清洲会議を経て、岐阜県南部にあたる美濃国を得た信孝が、椿井郷(岐阜県養老町)を治める伊勢神宮の神職に出したもの。信孝がこの時期に用いていた印章「
」(一つの剣で天下を平らげる)は
形で、信長のものと酷似している。
信孝はその後、自害に追い込まれる。
尾張、伊勢国を治めた信雄が有力農民に領地を与えたことを記した「織田信雄黒印状」(1586年)にある印章「
」(自らの威光を国中に示す)は、馬蹄形や字体が信長のものに似ており、信雄も父の威光を利用しようとしたことを想像させる。
信長の「織田信長黒印状」(1575年)は、信長が敵対する武田氏側との戦について徳川家康に伝えたもの。落城させた岩村城(岐阜県恵那市)に立てこもった全員の首をはねるなどして「近来の
を散ず(これまでのうっぷんを晴らした)」と書かれており、苛烈な人柄が伝わる。
長男・信忠の「織田信忠定書」(1581年)は、椿井郷が伊勢神宮領と認め、寺内での略奪や暴行を禁止するよう求めている。
同館の瓜生翠学芸員は「4人の書状を一度に見られる機会は珍しい。『我こそが信長の後継者』という息子たちの思いを読み取ってほしい」と話している。
17、25日と3月3、10、16、17日は休館。問い合わせは同館(0748・46・2424)。
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近江八幡市安土城復元推進協議会は23日午後2時半から、安土城跡の発掘調査の講演会を同市の安土コミュニティセンターで開く。講師は松下浩・県文化財保護課専門幹。無料で、申し込み不要。定員100人。同市安土未来づくり課(0748・46・7207)。